桃色のうさぎ

大丈夫な日の私だけをみつめてよ

3月8日、吉祥寺にて

一晩中、彼に抱き着いていたときの体温と香りが、いまもわたしに焼き付いている。


日曜日は好きな人とデートだった。
「デート」と口に出したらこれはデートじゃないんじゃないの、と言われた。彼はよくわたしに意地悪を言う。わたしが子どもみたいにムキになって反論すると彼は楽しそうに笑うから、なんでも許してしまう。
わたしも彼をからかうことが好きで、同じようにムキになる彼が可愛くてたまらなかった。こんな風に冗談を言い合える人は初めてだ。

彼からホワイトデーのお返しをもらって、思わず泣きそうになった。
バレンタインのとき、彼のことを好きだと自覚する前の義理チョコ、その後日に好きだと自覚してからの本命チョコの二個を渡していた。義理チョコは喜んでくれたけれど、本命チョコを渡したときは既にフラれた後だったから、受け取るべきじゃないんじゃないかなあ、と彼はとても気にしていた。
お返しは二個入っていた。二個もらったんだから、二個返すべきでしょ?と当然のように言われて、聞きたいことは色々あったけれど今は幸せだけを感じていたいから、すべて呑み込んだ。


もう何度も会っているというのに、相変わらず話題は尽きなかった。
わたしは今まで人間関係を構築するのがとても下手で、相当気が合わないと話題が尽きてしまうことが多々あった。
彼といると時間も忘れて、目の前においしそうな料理がたくさんあることも忘れてひたすらに喋り続けてしまう。彼はどんな話題でも同調してくれて、話を広げるのがとても上手だった。

元々文章を書くのが好きだったこと、これからたくさん文章を書きたいこと、ここ最近で考えていたことをわたしは彼に打ち明けた。
書くことなんてほとんど彼のことしかないけれど、きっと自分のことを書かれることは嫌だろうと思ったから、内容は言わないでおいた。それなのに彼はまた意地悪な顔をして、良い題材もできたしね、とわたしのことをからかうのだった。
本の話題で盛り上がったことがとても嬉しかった。わたしは小学生の頃はひたすらに小説を読んでいて、たまにクラスメイトから何読んでるの?と聞かれ、答えた挙句興味なさそうな顔をされることがトラウマで、未だに好きなものを自分から言うのは怖かった。どんなものを読んでいても引かないから言ってごらんよ、と言われて、わたしはひどく安心した。
彼も本を読むことが好きで、本屋でバイトをしていたこともあるのだそう。こんな店員さんと出会ってみたかったな、などと意味のない夢をみたりした。

会う前から、今日は二軒目行けるかな、と不安だった。二時間ちょっとじゃあ、彼に会うまで浮かれていた二週間分の気持ちを消化させることなんてできない。
わたしが日本酒が好きだから日本酒のお店を予約してくれたというのに、突然脈絡もなく今日はワインも飲みたいなあ、と呟いたわたしに、ここでもう一杯飲むか二軒目でワイン飲むかどっちがいい?と提案してくれて、迷わずに後者を選択した。
店に入って一時間半経った頃、そろそろ二軒目行こうか、と言われたときもわたしの方の料理はほとんど手付かずで、食べるの遅くてごめんなさい、と謝るわたしに、急がなくても大丈夫だよ、と彼は優しく答えてくれた。

 

二軒目でもわたしたちのおしゃべりは止まらなかった。
先日の記事でも書いたとおり、わたしはこの日のデートのために大騒ぎだった。
前の日にネイルを塗ったばかりだというのに、少しだけ欠けているのが気に食わなくて1時間かけてすべて塗り直した。前々回は大人っぽいくすみピンクのニット、前回は清純を思わせる白のニットを着ていたから、大人っぽく見えるように黒のタートルネックを着た。この日は3月だというのに寒くて雨も降っていたけれど、タイツではなくストッキングをはいた。
髪型も、彼が好みだと言っていた「ボブで毛先がゆるふわパーマ」になるように必死でセットをした。
こういう段階を口に出さずに相手から褒めてもらうのを待つのが大人だとわかっているのに、わたしはすべて彼に話した。今日のわたしかわいくないですか?と子どもみたいな質問をするわたしに、この前と違う髪型にしてきてくれてさあ、可愛くないわけがないじゃん、と照れくさそうに彼は答えた。


すっかり上機嫌で酔ったわたしは、今度は甘いものが食べたいですね、と三軒目に誘った。駅前に彼が行ったことのあるカフェがあるから、そこに行くことになった。
少し歩くけれど、と言われて、わたしは酔ったふりをして思わず彼の左腕に抱き着いた。彼に密着しようとしたことは何度もあるけれど、そのたびにダメだよと拒否され続けていたから、きっと今回も言われるんだろうなあと思った。先手を打って、ダメですか?と聞いたわたしに彼は悪びれもなく、いいよ、とだけ答えて、まるでカップルのように夜道を歩いた。
時刻は22時を過ぎたばかりで、どこのカフェもラストオーダーは終了していた。仕方ないから帰ろうね、と言い聞かせる彼の言葉で、わたしの帰りません攻撃が幕を開けた。
何もしませんから(何もしないわけがないと、彼もぜったいに分かっている)お家で甘いもの食べましょうよ、とわたしはまるで子どものように駄々をこねた。相変わらずダメだよ、としか答えない彼に、どうしてダメなんですか?とわたしは詰め寄る。寝るところだってないし、おめかしセット(この言い方がとっても可愛くてずるい)だって持ってきてないでしょ?と彼は言う。わたしはフローリングで3時間眠れる女なんで大丈夫だし、おめかしセットだって持ってきてますと、持ってきてもいないくせにわたしは負けじと答える。
この他にもさんざんやり取りはあっただろうけど、根負けしたのは彼だった。はしゃいで抱き着くわたしに、彼はもう何も言う気もなさそうだった。


また彼の家に来れたことが夢のようだった。
わたしたちは向かい合って、彼がくれたお菓子とともにワインを飲んだ。それは1万円もするワインだと一軒目の時点で聞いていたから、こんなの勿体なくて飲めませんよと言ったけれど、どうせあけてから日数経ってるし飲んでいいよ、と惜しげもなく注いでくれた。当然だけれど、今まで飲んだワインの中で一番美味しかった。安いワインと飲み比べしてみよう、と彼は子どもみたいにはしゃぎだして、高いのと安いのじゃあやっぱり全然違うね、と言っていたけれど、どっちも美味しいですよ、とわたしは答えた。彼と一緒なら、なんでも格別に美味しかった。
彼がくれたお菓子を家に持ち帰りたくなかったから、残りは次来たときに食べることにした。歯ブラシとメイク落としも置いておいた。着実に居座る準備をしているね、と、彼はなんでもお見通しだった。

結局わたしはフローリングで寝ることはなく、彼が来客用の布団で寝ることもなく、あの晩のように一緒のベッドで眠った。
何度かキスをするたび、低い声でダメだよ、と囁かれる。その声はどう聞いてもダメなように思えなかったけれど、大人しく抱き着いて眠ることにした。
頭を撫でてください、とねだるわたしの頭を、彼は優しく撫でてくれた。小さい頃に母が撫でてくれたような、とても優しい仕草だった。その感触がどうしようもなく愛おしくて、大好きです、と泣きながら繰り返した。


翌朝、彼は朝に弱いらしく、四回目のアラームで起床した。
わたしがシャワーを借りている間に、彼はきれいな弁当をこしらえて、コーヒーと紅茶を淹れてくれた。わたしは椅子に体育座りをしながら、スーツに着替える彼の姿に見惚れていた。
どうにかして素面の状態でキスがしたかった。けれどその日の彼はなんだか忙しなくて、玄関を出たときにキスをしようとしたら、何してるの、と叱られた。
その日のわたしは仕事が休みだった。わたしが押しかけただけなのに、俺の時間に合わせて出てもらってごめんね、と彼は言う。わたしの家の方面の電車は混雑で乗れたものじゃなかったから、ラッシュが過ぎるまで最寄り駅そばの喫茶店で時間をつぶすことにした。
じゃあまた20日に、また電話しますね、と彼を見送る。こんなやり取りが当たり前になればいいのにと、わたしは晴天の朝に願った。


一緒にいると本当に楽しいんですけどどう思いますか、と問いかけたわたしに、楽しいよね、と彼は嘘のない表情で答える。
少しでも長く彼のそばにいられるだけでよかった。こんな風な、友達以上恋人未満の関係でもいいから、悲しい終わりは見たくない。
そう思うことは彼のためではなく、自分のエゴでしかないのだろうか。